SIAb.

近親姦虐待の被害当事者たちがつながり・語り・学び合うためのセルフヘルプ・グループです。

短編集コラム

N先生への手紙(後編)

小学3年頃から、性虐待と同時に“いじめ”が始まっていました。Hさんがリーダーで、バレーボール(少年団)の時には、ボールをぶつけられたり、物をかくされたり、だんだんエスカレートしてクラス全員が口をきいてくれなかったり、男子には階段からつき落とされたりもしました。

家に帰っても、そんなことで落ちつく所もなく、毎日生きるのが精一杯でした。5年生でクラス変えがあり、少年団やHさんと過ごす時は相変わらずでしたが、クラスではなんとか、幼なじみと一緒になれた事で救われました。だいぶ後から知ったのですが、Hさんちも家庭内がゴタゴタ続きで、私がうらやましかったのかもしれません。
私は、家の中の“秘密”を知られないよう「我が家はステキな家族」と、演じていましたから。

中学に入り、Sちゃん達と知り合い、平気に自分の両親達の悪口や、浮気、酒ぐせの悪さなどを話したり、“じじィ”“ババァ”呼ばわりしているのを目の当たりにして、びっくりしました。
そして、この仲間達となら強くなれると思いました。楽しかったです。
先生たちにとっては、悩みの種だったでしょうが、毎日、わくわく、ドキドキで生きている感じがしました。

でも、それも学校にいる間だけ。夜や休みの日は、家にいると父の侵入に怯えていました。
「このことだけは誰にも話せない」「私だけ こんなことをされているのは」と思い込んでいたからです。

そして、忘れるためにシンナーを吸い、お酒を飲み寝ていました。
そこに逃げていなかったら、手首を切ったり、首をつったりしていたのかもしれません。

その後、高2の時に、今の主人、Tと付き合い始めました。彼もレストランSのアルバイト生で、一学年上です。
偶然、Sちゃんのご主人とクラスメイトです。

その頃から、私は「自分達の店を持つ」という彼の目標に引っぱられて生きてきました。
最初、OLさんをして、その後飲食の世界へ。17年前位にフランスに2年間行き、一緒に修行して、そして200〇年の〇月〇日に、今の店をOPENさせました。

その2年後位から、不眠が始まり、うつ症状が出はじめて、アルコール量も増え、ドラッグにも手を出し始めました。
そして、カウンセリング通い後、今のクリニックの主治医と出会えて、今ようやく、あの悲しい過去を語り“過去の事”として大切にしまい込む作業をしています。

「今の自分があるのは、今までの私の人生があったから」と、心から言える日が来るよう、週2回のペースで大勢の人の前でトラウマについて話しています。

長くなりましたが、その過程でどうしても、母の私への態度が納得できずに、そこで止まってしまっているので、何か、手がかりをつかめればと思い、先生に電話をした次第です。

今は、私の主治医をはじめ各方面の方々が、“子どもたちを虐待から守る”という活動をされて、だいぶ世界的に、性虐待についても語られるようになってきました。
ですが、まだまだ、その他の虐待も含め、多分この不景気も手伝って、その数は増えるという予想が多いです。

私は、自分の経験を活かして“そんな経験をしてしまっても大丈夫。生きていける。”というのを伝えていこうと思います。
先日は、“日本子どもの虐待防止学会 ひろしま大会”で、被害者として、実名で語らせていただきました。
まだ、治療途中段階なので、自分のことが精一杯なので、先のことになるでしょうが・・・
今は自助グループ(誤→NPO法人)JUSTで、時々、ホットラインをボランティアで受けて、悩みを聴いたりしています。

 恐縮ですが、もし先生が思い出したことがあれば、教えていただけませんでしょうか?
いつか、私は本を書きたいと思っているのです。

あと、参考に私が賛助会員として登録させていただいているNPO団体(誤→正:社会福祉法人)子どもの虐待防止センターの資料も同封させていただきます。

最後に、嫌な記憶の多い私の40年でしたが、(もうそんな歳になっています)確実に生きぬいてます。
それも、あの中学校時代があったからだと、今は思えます。
先生方には、大変迷惑を掛けましたが、あの時の、あの場所での私の記憶が、私の宝物のひとつになっているのは確実です。
そのひとつに、いつも「〇〇〇ぁ~!!」と、怒鳴ってくれたN先生の姿があります。
私のことを忘れずにいてくれたこと、本当にありがとうございました。

 これからも体を大切に、幸せをお祈りします。

住所
〇〇 けいこ(旧姓 〇〇)
電話番号

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