SIAb.

近親者からの性的虐待の被害当事者たちがつながり・語り・学び合うためのセルフヘルプ・グループです。

短編集コラム

命を奪う夏の思い出(3)

(前回からの続きです・・・)

ここから現在の私の視点から振り返ってみる。

屈辱、不安感を伴うような置いてけぼりをされたからといって、蛙への無慈悲な行動とそこに結びつく私の様子は、元から残酷で冷酷で身勝手な性格で、個人の資質の問題ではないのか?という疑問が浮かんでくる。

実際に長い間、私を苦しめてきた自分自身への考え方や見方だ。

確かに、一部分だけを切り取れば、たかが2~3日程度で、出先の事だ。
何週間も飢えさせられ、孤立させられてきたわけではない。
親類の入院なども絡み、そこまで怒りや憎悪を爆発させるのはおかしい、という見方は誤りでもないと思う。
その部分だけを切り取れば、だ。
気難しく、気分にムラがあり、極端な思考回路と予測しにくい異様で突発的な行動は、問題の多い子どもに見える。

しかし、こうした事は単に引き金に過ぎないと考えている。

極端な行動に走るには、物心つく以前から慢性的な虐待(心身)、性虐待も絡んでくる。
それらは非常に見えにくく、自分を抑えれば抑える程、不穏、不安、恐怖心等は過敏になり、“ちょっとした周囲の言動”が、私には死刑宣告、重罰の様な感じ方をする。
誰かの言動に理解不能な過剰な反応や思考回路に陥るのも、継続され積み上げられてきた背景と記憶が何度もバラバラになる為だ。

自分の意志と無関係に抑圧してしまう断続的な記憶と、周囲には突発的にしか見えない反応は、無意識に大きな隔たりを作ってしまう。
私も他者も、問題の起こった前後を部分的に見ても、遡って繋げることが難しいからだ。

最近、某人から「何故、元受刑者支援などに関心を持つのか?」と尋ねられた事がある。
思考がまとまらない中、「加害者に”何故?”が聞きたいから。被害者でも社会や世間一般でもなく、犯罪の内容はどうあれ”何故そんなことをしたの?”を聞きたい。知りたいから」と答えた。
それが精一杯の返答だった。

私は、自分自身と人間に失望したくなかったのだと思う。

残酷で冷酷な行動には、必ずそこに至る背景と理由があり、ずっと遠くまで遡らないと見ることができない。
もし、そんな背景がなかったなら・・・人であれ、動物であれ、その人は殺めるという行為をとっただろうか?

単に面白いから、気晴らしをしたかったから、スリルがあったから、興味本位・・・
そんな理由と動機だけで無意味な殺戮を行うだろうか?

私は行わないと思う。

多分、圧倒的多数の人たちが、遡って見つめる事が困難な背景がなかったら、全く意味の無い殺戮行為など行わないと思う。

私の両親にも、そうあって欲しいと今は願う。

彼らが決して、遡って捉えなおせない人たちであると解っていても願うばかりだ。
そうでなければ、受け入れることも許すことも決してできないからだ。

考えると、ただの個人的な強い願望にしか過ぎないのかもしれない。
でもそんな願いさえも手放してしまったら、本当に何も残らない気がしてならない。

VC・アンドリュースの作品に出てくる子ども達は過酷な環境に置かれる事が多い。
どの子どもも、支えあう兄弟姉妹や周囲の理解者が必ず登場する。
そして追い込まれた血縁者同士が惹かれあい、一線を踏み越えてしまう物語展開が多い。

どの国や文化でも禁忌とされる闇を抱えた時点で、彼らは一般社会に属しながら隠れ潜む様になってゆく。
もし、一方的な性虐待が横行し、支えあう者もいなかったら、VC・アンドリュースの物語は非常に残酷で冷酷で無慈悲で孤立した殺戮者を生み出したかも知れない、と想像したりする。

でもそれは、とても感情移入しにくい主人公や登場人物になるのだろうな・・・と思う。
同時に、退屈で面白みの無い淡々とした人物像になってしまうかも知れない。

私にとって”心の闇”とは、多分、拍子抜けする程、身近で呆気ないくらい淡々としたものだと思うからだ。

一つ一つのものが、どれ程恐ろしく陰惨でも、関心を向けられなければ命そのものが意味を成さない。
私自身も。手をかけた小動物達も。

全ての命が無条件に意味を持っているのではなく、命に自分が意味や価値を見つけ出すから大切なものになる・・・
今はそんな風に考えている。

*(注)文中、省略したこと内容があります。完全に一人にされた以外にも妹、親類の幼い子ども一人の子守を任された日も二度程あります。
手のかかる幼い子ども達を私に預けて、短時間とはいえ、大人たちは外出しています。
扱いの難しい親類の子どもと二人で取り残された時は、子どもとはいえ、私の精神状態は極限に達していました。
ようやく異変を感じた大人たちが、残りの滞在時は私や子ども達から目を離さなくなりました。
私は一切の言葉を発さず、身動き一つせず、ただ座り、横になる以外のことをしなくなっていました。
放置すれば、排泄さえも自力で行わなくなったと思います。気力が完全に尽きていました。
彼女達が判断を誤っていたら、蛙のかわりに幼い親類の子が何かしらの犠牲を払わされていたと思うとゾッとします。

私の様な「異常な精神状態の子ども」を扱う為の周囲の大人たちの判断ミスだったのか?
私が幼い子どもであったにも関わらず、異常な精神状態にもっていった両親、家庭、間接的な環境や状況に問題があったのか?

大人になった現在の私は、後者の考え方に立っています。 (けい)

 

SIAb.プロジェクト

コラム

寄付のお願い

ページトップへ戻る