私は、(2月21日の夜、ホテルで会った時)自分の悲惨な過去を生き生きとした顔で話す母を見ながら、クリニックに通い始めて少し回復した頃の私を見た
でも、語っているだけでは『自分がこの世界で一番不幸』から抜け出せないこと
“なぜ?”という気持ちが湧いて、葛藤しないと、母のように自分を憐れむだけで前に進めないこと
母を見て確認できた
私が「大変だったね」と、言ってあげられれば良かったのかもしれない
私には、まだ、その言葉が母に対しては出てこなかった
自分を憐れむだけの母に対して、少し苛立ちさえ感じた
親鸞の言葉の覚書:(『歎異抄の謎』五木寛之:著から)
『「慈悲」というものについて、わたしたち他力門と、自力をたのむ聖道門とでは、考え方が違う。
聖道門の慈悲とは、他人や全てのものをあわれんだり、深くいとおしんだり、自分の力で助けようとする気持ちと、その行為のことである。
しかし、はたしていったい、ほんとうに自分の力で他の人々を根底から救うことができるものだろうか。
我々の信じる他力の慈悲というのは、全ての人は念仏によってまず浄土に生まれ、そこで仏となる。
その結果、新たな力を得て、人々を救うことができるという考えかたである。
この世において、どんなに他人があわれで可哀そうに思われても、自分で思うがままにそれを救済することなどできないことなのだ。
そのことを思えば、自力の慈悲に頼ることだけでは十分ではない。
だからこそ、ただひたすら念仏することに徹底することが、本当の慈悲の心というべきだろう。』
念仏=あなたがしあわせになることを祈ってますよ ってこと??