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近親姦虐待の被害当事者たちがつながり・語り・学び合うためのセルフヘルプ・グループです。

ヒラケトビラコラム

学問のおすすめVol.1

このシリーズは、2011年夏頃から10回に渡って、あるNPO法人の会報に寄稿した体験談を、再編して掲載しています。

***

7月の初旬のクリニックでの“Sミーティング”でのこと。

S 先生が、Q&Aの時に「秩序とは優しさや思いやりからうまれる」という話しをした。
・・・涙がこぼれた。

次の診察の時に、秩序について尋ねた。
すると、

「秩序っていうのは、ルールと、ルールの違反による処罰とでなりたっているんじゃ〜ないよね。
 人間が秩序をつくるっていうの、やさしさなんですよ。
 お互いが十分にやさしさを利いてきて、そしてそれをありがたいってと思う…っていうところから始まるのが人間なんだと思うんだよね。
 どうしても “あれをしちゃいけない。これをしちゃいけない。” って考えるとわかんなくなっちゃうんだよね。
 厳格な中で生きても、人間幸せになれないもんね。」

と話してくた。

―また “求めていた言葉” に出合えた。

通院してまもなく、私にとっては、Sミーティングが、まるで大学の講義を受けている場所のようになっていた。
S◯Aの自助グループはゼミ??

今まで、絶対唯一の神であった自分自身が、かたくなに信じてきた“普通”とか“常識”がどんどん変化していった。
Sミーティングや自助グループに参加する毎に、強く生きる為に必要だった私の武装が次々に解除されていくのを感じた。

これから何回続くかわからないが、私の回復してきた過程を、その時々の思い出なども織り込みながら書いていきたいと思う。

これから先も、強く生きて行く為に、いままでの大切な想い出を残しておきたい。
ときどき読み返しては自分自身を褒めてあげたい。

それと、読んでいただいた人にも、文中に何か気付きがあればうれしい♪という気持ちもある。

ちょっと傲慢?
ま、いいか。。。

では、まずは自己紹介から、流れで・・・

ここにつながったのは約3年前。
クリニックのティールームで、スタッフさんたちに声をかけられたことがきっかけだった。

現在も、Sクリニックに通院中で、4年目を迎えた。
診断は、父と兄からの性虐待による複雑性PTSD。

約6年前から不眠に悩まされ、別の精神科に行ったが、薬だけの処方でがっかり。
カウンセリングをみつけて通い始めて、ちょうど1年ちょっと経った頃にS先生に繋がった。
それまでには、3、4人、担当医を変えていた。
しっくりこなかったり、いわゆる「生理的に受け付けない人」だったりが原因…

今の仕事は、夫と2人で10年前に開いたレストランの経営とサービス担当。
夫とは17歳からの付き合いで、19歳の頃から半同棲が始まった。

15歳になったばかりの頃に、父からの性虐待を表ざたにして以降、原家族はギクシャクしたまま。
その頃の私は、一日でも早く家を出たいと強く思いつつも… 

①金が無い
②あんな親達に頼りたくない
③中学生で家を飛び出しても苦労するばかり。
 あんな目にあっていた私が苦労するだなんてバカバカしすぎる
④冷静に考えて、私は水商売で客受けるような容姿ではない。
 …のできっと体を売ることになってしまう
⑤坂を転げ落ちるように不幸になるのは想像がつく
⑥ヤクザな世界は怖いからイヤだ
⑦いつか絶対ものすごいリッチでハイソな暮らしをしてやる
⑧悔しいから生き抜いてみせる

と、毎日グルグルとどうしたらよいか悩んでいた。

高校に入ってすぐに、家に居たくないのと金が欲しいという理由で、地元のレストランでアルバイトを始め、そこで夫となる1年先輩の彼と知り合った。
それまでは、必ずグループのリーダー的な人ばかりを好きになったり、付き合ってきたのに、なぜかふつ~のパッとしない彼を好きになった。

多分、彼が仏料理という、なんとなくリッチでハイソな感じのものに進もうとしていたことと、東京に就職して住むということ、あとは私自身が素でいられること…が理由だったのだと思う。
あと、バイクに乗っていたこと。

きっかけは、バイト先のキャンプの時に、隣に彼が寝ていた。
何だかムラムラとしてきて、自分からキスをした。
その一撃で交際をスタートした。

S先生は、“この一撃” が、私の人生の勝因だったと度々言ってくれた。
この一撃で彼を摑えたこと、それと「欲求を行動に移すことができることがあなたの強さです」とも。
この  “もの凄い実行力”  によるエピソードについては、追々書きたいと思う。

さて、見習いコックだった彼の月給は、手取りで7万円。
バブルの時代にあって、信じられない低待遇。

やっとのこと、タコ部屋の寮から脱出して、借りた部屋は4畳半一間。
共同便所、風呂なし。家賃は2万2千円。近くには神田川。
ちなみに、せっけんは確かにカタカタ鳴ってた。
アパートの名前は「ときわ荘」。ここまでいくとギャグの世界。

1年後、私も高校を卒業して専門学校に。
都内のはずれ〜の学生寮にはいったものの、ほとんどこの部屋に転がり込んでいた。
節約のため、ガスも通ってないので、お泊まりの朝は電気ストーブでパンを焼いてた。

彼の職場は修行の場…というよりは、まるでタイガーマスクの「虎の穴養成所」。
当時は普通だった、殴る・蹴るの横暴に耐えながら、一流シェフを目指してた。
『いつか二人で小さな一軒家のレストランを♪』…夢だけは超一流。

1年後、私は夢のOL生活…と思いきや、女同士の縄張り争いという貴重な経験や、お茶汲みとコピー、資料のデジタル化という、あくびがでまくる仕事内容の会社に就職。
「石の上にも3年」っていう言葉がなぜか引っかかって、なんとか3年弱しがみついた後、方向転換して飲食業界に。
彼の夢に便乗することにした。
23歳の時に、さっさと武者修行に旅立った彼を追いかけて、2ヶ月後に渡仏。

そういえば、この頃には、原家族とギクシャクは残ってはいたものの仲良く過ごすようになってた。
彼や、彼の家族との交流や姉の結婚などもあり、他の家族との交流があったからかも。
家を出て、稼いで暮らしを立てるってことの大変さを実感し、親への恩や感謝も感じていたのも確か。

…とはいうものの、同棲するに当たって大反対をされたことにブチ切れて、家中の電話線やアンテナ線やコードを切りまくって家出し、彼の部屋に転がり込んだのが出発点。
腹の底では、一発触発!マグマは渦巻いていたと思う。

この時も、私の “もの凄い実行力” が功を奏したということになる。
この私の実行力の原点を考えてみると、子どもの頃にすでに芽生えていたと思う。

3歳の頃、近所の豆腐屋の2階から、マントをつけて月光仮面のように飛び降りるつもりが、怖気づいて「明日にする」と止めたことがあった。
その話を、母が何度もみんなの前で話す度、悔しくてたまらなかったし、恥ずかしかった。
「どんなことがあっても口にしたら実行してやる!」が、私の方針になった。

6歳の時に、忘れられないことがあった。

高飛び込みの台から飛び込むと宣言し、登ったのはいいけれど…
ものすごく怖くて、本当は逃げ出したかったのに、「悔しい!」という思いも湧き上がって…
とうとう意地で飛び込んだ。

今でも強く記憶に残っている。
あんなにも怖かったのに、飛び込んでみるともの凄く気持ちがよかった。
深いプールの底に手を着いた時、すごいことしてやったって気分になったこと。
水圧で背中がボキボキ音を立てたり、水面に上がるまでに息が持たなくなりそうで、恐怖感に襲われたこと。
水から上がった後、何に対してかわからないが、やってやったぁ〜という達成感や優越感があって、今までの自分とちょっと違うような感覚になったことを覚えている。

この感覚が今でも忘れられない。
飛び込んだ先に違う道が開けるような・・・
勇気を出して飛び込んでみると、想像していたよりもなんてことはないのではないか・・・
ようは自分が一歩前に進む勇気があるかどうかだ…

以前、他の人がシェアをした時に、「父親に愛された娘は冒険をする」とS先生がおっしゃっていたことを思い出した。

そう…
あのことがあるまで、私は父の背中を追って、父に見守られ育っていた。
何かあっても父が助けてくれる…そう信じていた。

母にも「お前ならできる」と何度もいわれて育った。
「お前は私と似ているから」と…

あのことが発覚した後、両親は私によかれと思って沈黙を守った。
私は自分から口を閉ざした。

「ときどき間違って、いいことをしてるつもりで 、“イヤだ!” っていうことを言わせなくしちゃう…ってこともある。
 “やってあげているのだから感謝しなさい” みたいなことになると、当人は優しいと思っていても、受け取り側が義務でやっているということになる。
こういう食い違いが、秩序が乱れる元になる。
そして2人の間の関係で苦しさが起こってくる。
片方が逃げるようになる。」

と診察室でのS先生の言葉を思い出しました。

2011.8月頃(K)

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