11月の誕生日に生まれて初めて草津に向けて出発した。
二泊三日分の最小限の荷物を詰め込んで、一日2本しか出ていない特急草津にひとりで乗り込んだ。
目指した先は草津町草津白根にある国立療養所「栗生楽泉園」にある重監房資料館と、先にその地を訪れた人から聞いた”ちょっと変わった十字架”だ。
私の乏しい知識の中で、現在は療養所として日本全国に存在する施設は、かつてハンセン病(昔はライ病と言われた)者を強制隔離、収容した場所。
東京では東村山市青葉町に「多摩全生園」がある。
ハンセン病問題について、私が本格的に興味と関心を持ち始めたのは15年くらい前だろうか。
まだインターネットもなかった頃、買い物ついでに立ち寄る書店巡りが楽しみで、たまたま目にした本がある。
タイトルも内容もほとんど忘れてしまったが、帯に書かれた「隔離の里」という言葉に釘付けになった事は覚えている。
隔離という言葉は知っていても、それが一冊の本にされるという感覚はなく、それだけでも衝撃を受けた記憶がある。
人の手によって閉ざされた世界、見えない隔離の垣根や壁は、私の中にもある。
無意識のずっと奥にあった何かがハンセン病問題と触れたのだと思う。
何冊か本を読んで、自分自身の目で確かめたくて、多摩全生園に何度か足を運んだ。
それからも途絶え途絶えになりつつ、本を読んだり、時にはすっかり忘れたりしながら、テレビでハンセン病関係のニュースが流れれば耳を傾けたりしていた。
のろのろと月日が流れ、草津に重監房資料館がオープンしたらしく、偶然、その案内パンフレットを目にした。(仕事柄、目にしやすかったのだが)、また自分の目で確かめたくなり、今回の草津行きにつながった。
さて、方向音痴にも関わらず、辺鄙な場所に存在する宿はすぐに見つかった。
日が暮れかかっていたし資料館開館時間は過ぎていたのだけれど、場所だけでも確認しようと、荷物を放り出して地図を片手に宿を後にした。
数分も歩くと周囲には建物がなくなり、車も人も殆ど通らない。日が暮れたら真っ暗になるのは目に見えていたので、引け腰になるのに足だけが進む。
耳にしていた通り、公営墓地、職員宿舎を過ぎ、「栗生楽泉園」正門が見え、重監房資料館の道行き矢印が目に入ると、舗装されていない道は山と雑木林だけ。
微かに聞こえてくる盲人案内用の園内音楽さえ、心もとない。
あまりにも寂しい場所で、道を間違えたのではないか?と何度も考えた。
全く違う道に迷い込んでこのまま出られないのでは・・・・
心細さからそんな恐怖心に呑まれそうになった頃、緑色の屋根の古い平屋が見えた。
ホッとして回り込んでみたら草津カトリック教会だった。
足から力が抜けてしまうとは、こういうことだろうか。
一気に緊張がとけた。
とりあえず道は間違っていなかったのだ。
教会を入ってすぐ右手の木に、入居者が作ったと言われている木彫りらしき十字架が目に入った。
金箔?は剥げ黒ずんでいたが、磔にされたイエスらしき人を左上から女性が足を支え、右下では男性が十字架を支えている様に見える不思議なものだった。
有名な十字架の形といえば、イエスがただ一人、磔にされているものばかりだから、心細さも忘れてしげしげと見入ってしまった。
よく見ると、十字架右下に、落書きの”コックさん”に似ている、十字架に似つかわしくない顔が彫られている・・・
どうも何人かいるようだ。
大きな丸い目に分厚い「おばけのQちゃん」みたいな唇。
最初は観光に来た人のイタズラか?と思ったが、そうではなく製作者が彫りこんだものらしい。
そうこうする内にどんどん日が落ちてゆくので、資料館に向かい、その隣にある納骨堂に向かった。
やはり閉館していて、納骨堂にも入れない様になっていた。
それでも場所の確認ができたので、今度は急いで旅館に舞い戻った。
明日ゆっくり見よう。
コンビニで適当に食べ物を買い込んで、ひとりでもそもそ食べた。
前置きが長くなったのだが、タイトルの「命の終わりはポテトチップス!」。
これはハンセン病も療養所も全く関係が無い、私個人の事から付けた。
シアブのコラムを持たせて頂いたということで、今は多くの説明は省いてしまおう。
ハンセン病問題と、自分自身の問題をなぞらえることに焦点をあてると、私は予測不可能な状態で、何度も命そのものを脅かされてきた過去がある。
最近も新聞で読んだが、親によって「24時間以内に自殺しろ」などと、長くに渡って心身ともに追い込まれた少年が自殺した事件が報じられている。
彼は死んだ。
私は何とかこの年まで生き残っている。
平たく言うとそれだけなのだが、命が在るのと無いのとでは大違いだ。
私の話に戻ると、その頃、事故に見せかけて私を殺そうとする親に常に怯えていた。
私が本当に仮死状態になった時でさえ、医者は息を吹き返した段階で手を引いている。
(不自然な通院は何年も続いたが、行き付けの医者は口封じの為に利用されていた状態)
色々な事が認識できないまま、ただ一つ、本能的に感じていたのは“死の恐怖”。
難しい理屈や理論も知識もいらない。
幼すぎて死という言葉をまだ知らなくても、生存本能を脅かす感覚は常にあり、鈍重な子どもだった私もこれだけは敏感だった。
家の内情が外に漏れるのを恐れた親や大人たちの画策と、
異常、特殊に感じるものと一線を引きたい多くの人たちと、
誰とも何とも、
しかも、自分自身の本質を真っ向から突きつけてくる厄介なものでもある。
自分が助かる為なら何でもしよう、絶えず助かる道を探していた。
自分の代わりに誰かが犠牲になって逃れられるなら、迷わずその人の背中を蹴りだすだろう。
どんな説得や言葉や問いかけも、内にこもって怯えている子どもの私に届くことはなかった。
そもそも、私と周囲の人達との間には大きな世界のズレが生じていてどうしようもなかった。
自分自身と親によって作られてしまった透明な垣根は、外界との世界を遮断してしまった。
子どもだった私にも、社会に出た私にもこれは致命的な事だった。
ところで、当時、家族内での私への食べ物差別は珍しくなかった。
怖くて親に何一つ刃向かえない子どもだったのに、たまに人からもらったお菓子には執着し、殴られるのを覚悟で、板チョコを丸ごと食べようとしたこともある。
(一気食いの腹痛に苦しんだけれど)
家にある甘い物、おやつは何でも口に押し込んだ。
お腹がぱんぱんで吐きそうになっても、時間をかけて詰め込み続けた。
よく覚えているのは、ファミリーサイズの特大ポテトチップスだ。
安くて大量に入っていた為、家ではよく買われていた。
学校から帰宅して発見すると直行して迷わずポリポリ食べ続けた。
一度に食べきれる量ではないけれど、無心に食べ続ける。
それを見て家族は嘲笑する。
『またこいつは頭の悪いことをしている・・・・』
そんな私を、母親は嫌悪し、妹は見下し、父親は豚と呼んで嗤った。
私は何も考えなかった。
ただ、私に嫌な思いをさせる為だけに出される事の多い家の食事、生焼けの肉や魚、火の通っていない野菜やワサビ入りの”専用カレー”より、ポテトチップスを頬張る事は幸せな気分になれたからだ。
いつだっただろうか。
『死刑囚は死刑執行前に好きな物を食べさせてもらえる』と聞いた。
でも好きな食べ物が喉を通る人は少ないらしい。
もし、私が死刑囚だったら、執行前でもきっと食べられると思った。
子どもの頃は自信があった。
好きな物なのだから!死ぬ前に絶対に食べられる!
自分が何を最期に食べたがるのか?
そんなことにも思いが及ばない。
作り上げられた壁、垣根、目に見えない隔絶された内側の世界から手を伸ばせるのは、ポテトチップス。
当時の私が、しっかり見つめられた数少ない現実の一つ。
ハンセン病療養所を訪れた時、病者故に隔離され、骨になっても故郷に帰れない人々の罪状を考えた事がある。
罪状などありはしないのだが、自分の中に築いた隔離の垣根と隔絶された世界観と罪は一緒くたになっているのだから、そんな見方をしたのだと思う。
彼らが病者になった事が罪だったのだろうか・・・・・???
ひょっとしたら、命が在る事そのものが罪だとされていたのではないのか?
そんなことあるだろうか?
何かの罪を自身の命に負わされてしまったら、負わされた者はどうしたらよいのだろう。
では、命で贖う程の罪とは一体何なのだろうか。
私なのか、彼らのことなのか、区別もつかないまま、命そのものを罪とされる命とは何なのだろう・・・・
最近、元ハンセン病患者の人々が実名と自身をメディアに出す事が多くなった。
それは、彼らの命が終わりに近づいているからだということ・・・・。
閉ざされた世界がどれ程、孤独か。
一度閉ざされた場所から出ようとする事は、一生を費やすに等しいこと。
親による虐待死事件が流れる度に、いつも感じること。
また誰かが、見えない垣根の中で力尽きていったのか・・・・・
草津の療養所内にある納骨堂横に、命を絶たれた子ども達の石碑に刻まれた言葉。
「命 カエシテ」
もし私がこの言葉を使うなら、私は誰に、どこに向けて言うだろうか。
発した声や言葉は、どこに届くのだろう。
今はとりあえず歩いていこうかな。
できる範囲で。
私にはまだ時間があるのだから。
何よりもシアブの仲間がいるのだから。
今は独りではないのだから。(^-^)
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なお、文中、十字架への記述で男女の位置が左右逆になっています。
私は、極度に緊張や不安を感じると、鏡文字の様に、左右の認識が頭の中で誤作動を起こす事があり、今回もそれと同じ事が起こったと思われるので、訂正せず記載しました。