主治医の新聞のコラムの“現実という父”という言葉と、先日のミーティングでのディスカッションの時に言われた「そんなに罪悪感を持たなくてもいいと思うんだけれどね」という言葉から
ミーティングで、「夫が母のよう」と「あの眼差しの映像が父のよう」といったのも違うような感じ…
夫とは対等な関係だし、キャンプの時のあの映像は想い出のようなもの…
私にとって、もっとどっしりとしたものは、この(被害と向き合い始めてからの)3年間の積み重ねと、その前までの生き抜いてきた私自身。
確かに、父は超現実を私に体験させたし、向き合わせた。
母は(被害を訴えた後)甘えを与えた。
今、私は上手くそれを夫に求めたり、主治医に求めたりしながら、適当に生きている。
この辺りを もっと冷静に感じて 考えてみよう