N先生へ
昨日は、遅い時間に突然の電話でご迷惑をお掛けいたしました。
あと、私にはまだ“K先生”というと実感が湧かずに、こうして先生の旧姓で書き出させていただいていること、ご理解ください。電話で大筋のことを話させていただきましたが、まず最初に申し上げておきたいことは、両親を告訴するといったつもりは全然なく、ご安心していただきたいということです。もしかしたら、長い教師生活の中で、他に虐待問題などに関わった経験がおありになるということがあれば、私の突然の電話に、その様なことを頭に浮かべられたかもしれないと思ったからです。今の私は、ただ、“なぜ?”を追及しているだけです。
198〇年(昭和5〇年)3月、今から25年前近くのことを急に質問されても、先生もびっくりされただろうし、記憶というものはすぐ出てくるものと、そうでないものもあるので、困惑されたと思います。
私は、198〇年の秋ごろだったと思うのですが、多分、母が私と友人の電話を盗み聞きしたか何かで、当時、シンナーやボンドを吸引していたことを学校に報告され、生活指導のA先生に資料室に呼び出されました。その時期、A先生の娘さんが私の姉の友人であったこともあり、そのせいかいつもA先生から「お前のお姉ちゃんは優秀だし、あんなに良い子なのに、どうして?」と言われていました。その日も、「なんであんな立派な家族の中で、お前だけがこうなってしまったんだ」と言われていました。
「こうなったら施設に行ってもらうしかないな」と言われた時、私は胸に溜まっていた怒りが、やっと口から飛び出しました。
「何も知らないくせに!!」その言葉で、A先生はすぐに家庭内にとても重大な問題があると気づいてくれたんだと思います。
「何があったんだ?全部話してみなさい。お父さんか?」と、何度も聞いてきて、その時の私は≪もうこうなったら全部ぐちゃぐちゃになれ!!≫と思う気持ちで、「そう。」とひと言だけいいました。
姉も実は、同じようなことをされていたので、先日、姉に「A先生に話したの?」と聞いたら、「してないよ。でも、長い間教師やっていたからいろいろな事があったろうし、それでわかってくれたんじゃないのかな?」と言ってました。
私は、その後、施設送りはまぬがれ、その後、多分家族にどんないきさつ経路で伝わったのか、その夜、母に「気づかなくてごめん」と泣きながら謝られました。
次の日からは、また普通の学校生活には戻りましたが、もう、今までの家庭ではなく、今までの私でもなくなっていました。“ただいる”だけになりました。
母が、「あの日、N先生に呼び出された時に、“けいこさんがあんなひどい目にあっていたのを知らなかったんですか!!”と怒られた」と先日、今通っているクリニックでの親子面談の時に言っていましたが、私は25年前のあの日の数日後、父がA先生にある所に呼び出されて話をされたと聞いただけでした。
なにが真実なのか、わかりません。母は、時々都合のいいように話をつくるひとだからです。
今さら、そこに何でこだわっているのか、自分でもよくわかりません。
母は、何も私に詳しいことを聞いてきませんでした。
ただ、私は、次の日にでも、我が家は離婚して、家族バラバラになっているだろうと思っていたのに、私と父が話しをしなくなっただけで、後はなにも変わらなかったことが、不思議でたまらないのです。
その後、私は「高校に受かったら家を出たい」と言いましたが、「一緒に出よう」と言っていた母は、実際には「世間体があるから、我慢して」と泣きついてきました。結局、私が家を出たのは、専門学校に入り、寮生活に入ってからでした。
母が、私を裏切ったという思いは、高校入学の時の「我慢して」が最初でした。一年後位に耐えられなくて、高校を辞めて家を出ようとした時、先日まで忘れていたのですが、母が怒鳴り、泣き叫びながら、私の顔やお腹や背中を殴り蹴り、髪の毛を引っ張り回して「そんなの許さない!!」と言ってました。
その時、私の心の中では、諦めと、母を残していけない自分がいたのだと思います。
結局、専門学校に行くまでは、全てを“忘れる”ことにしたのです。
高校に入ってすぐ、レストランSでアルバイトで働くことになり、その時、一度先生の家にお邪魔したのを覚えています。
あの時、本当は謝りたかったというのもあったのですが、結局、Mさんが一緒にいたので、言えずに帰ってしまいました。
ご主人になられたK先生には、本当に迷惑を掛けました。心から謝りたいと思っています。先生とK先生に。
私は小学校3、4年の頃から中学3年まで、父親から性虐待を受けていたのです。
児童保護監察官(誤→正:ボランティアの児童保護観察士)や子供会の会長、消防団員であり、地域の名士としてしられていた父。警察の方々とも交流があるような父が、家では自分の娘を性のおもちゃ扱いにしている中で育ってきた私には、大人全部が信じられなかったのです。
K先生は、小学校の時、みんなのあこがれの先生でした。そして、中1の時、私達の担任なり、私はそのさわやかさや誠実さが、“ウソ”としか見えなかったのです。
誰もみんな信じられない。信じられるのは友人だけでした。
その友人、特にSちゃんにさえ、全てを話したのは高校卒業後でした。
仮に、話したとしても、どうにもできないだろうというのと、家族がバラバラになるのが怖いということもあったのです。
だから、N先生にも“口がさけても言えない”ことだったんです。
A先生に言えたのは、『私が私を守った瞬間』だったと思います。
あの時の、あの一言が言えなかったら、今の私は存在していないと思います。
今、主治医をしてくださっている先生に「シンナーをやっていなかったら、あなたは自殺していたでしょう。」と言われた時、心からそう思いました。
私は、あのまま中学を卒業して「仲間達」と別れていたら、確実に生きていなかったと思います。学校が私の最後の居場所だったからです。