当初、夫は、コロコロ気分が変化する私に振り回されて、疲れ果ててしまっていました。
殴り合いの喧嘩も続きました。
08年の9月のある夜、私はガラスに映った『弱い自分』に怒り、床にワインボトルを叩きつけました。
その行為に激怒した夫は、“本気”で殴りかかってきました。
いつもは反撃するのに、彼の気持ちが済むまで殴り蹴られつづけました。
後日、その事をシェアすると、先生から
「あなたは夫を利用して自分を罰しようとしている。それは、夫もあなたも傷ついて苦しいだけだから止めなさい。」
と言われました。
今考えると、夫に罪悪感を持っていた『強い私』が夫から罰をうけるように仕向けていたのではないかと思えるのです。
また、私を殴ることによって夫に罪悪感を持たせようともしていたのだとも思えるのです。
ともかくこの事件後、17歳の頃から“愛情のためし行為”を続け傷つけてきたのに、それでも側で守ってくれている夫の存在が大きくなりました。
実は、ひと頃、主治医が大きな存在になり過ぎて、夫を頼りなく感じてしまっていた時期がありました。
夫に“主治医”を求めてしまったのです。
その正直な気持ちをシェアすると
「私はあなたの主治医であって夫にはなれません。ご主人もあなたの主治医にはなれません。」
と言われました。
この言葉から《人はそれぞれ人格があり、それぞれの役割があり、その人ができることはその時のその人の限界なのだ》ということに気付けました。
傾聴するということも大切な回復の為のプロセスと教えられ、仲間のシェアもたくさん聞きました。
その中に“私の母や姉の立場”や“私の父親や兄のような立場”で話す人がいるのに気付き、元家族のそれぞれの苦悩も感じ取ることができるようになりました。
そんな心の余裕ができ始めた頃から、徐々に元家族との“話し合い”を段階的に始めました。
まず、07年の秋に姉と、被害者同士今までの苦悩を分かち合い、回復への協力をとりつけました。
そして08年の1月に母・姉・私の3人で女同士の話し合いをし、今まで語らなかった“性虐待”にまつわるいろいろな思いを吐露し合いました。
そして、4月に兄と会い、謝罪を受けました。
私も兄も、一時は恋心に似たようなものがあったことを話せました。
そして、8月には父・母・私の3人での話し合いをしました。
この時は、心の伴わない謝罪で終わりましが、そのお陰で09年の1月に、先生を交えた親子面談に漕ぎ着けました。
その日、父は“悪行”を認めず、母も「あれだけの人なの、あきらめて」と言い放ちました。
でも、その頃には、私は彼らの“限界”を受け入れられられるようになっていました。
後日、先生に、父から“悪行を認める”電話があったそうです。
また、母も私に「自分の築きあげたものを手放したくかったから夫と別れなかった」と本心を白状してくれました。
いつの間にか“私が変化”することにより“彼らにも変化”が現れ始めたのです。