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近親姦虐待の被害当事者たちがつながり・語り・学び合うためのセルフヘルプ・グループです。

麻布十番おでん日記コラム

[2008年10月28日]

あの頃理想だった大人と実社会に生きる大人

クリニックへ
ピアノの発表会の為(デイケア・プログラムのひとつ ピアノレッスンに参加している人たちの発表会)、主治医のミーティングが13:00~15:00に変更になっていた。

Oさんに会いに行くと、息子さんが結婚式をあげたとのこと。
元夫さんが、知人のバンドに演奏を依頼していて、「本人は出席していないのに、存在を感じてしまって…」と、かなり落ち込んでいた。

明日、メールを送ってみよう。

診察では、
「結局、私は、どこまで悩んで、苦しんで、父に罰を与えたり、許したりすればいいのか?」
など、質問した。

「自分で、正しのか、正しくないのか、判断できない。」と…。

それに対して、
「私は、加害者側の弁護のための診断書も書いているから解るが、一番苦しんでいるのは、本人。」
と、主治医が言った。

Oさんと、クリニックの帰りにいろいろと話していたら、“キレイごと”を言っている自分に気づいた。

私は、“自分を守りたいため”だけに、いろいろと行動しているのではないか?と思った。

その視点から見ると、私は “被害者のままでいたくない” から、父親に過去のことを話に行ったのでは?
父や母や兄を苦しめて、自分が、ある意味 “加害者” の立場に立つために。
そして、その立場に自分を置くことで、彼らを責め続けなくていいように…

自分も同じ立場になることで、“もうこの件はいいよ”になる。
ケンカ両成敗と一緒。

私の苦しんだ分、あの人達にも苦しんでもらう。
そして、後悔してもらう。

一方的な考えなので、どうなるか結果は判らなくても、やりきったことで“もうどうでもいい”ことになる。

負けたままの自分では、自分がかわいそう過ぎて、バカらしくて、悔しくて、いつまでも、いつまでも、それにとり憑かれてしまうから…。

そして、私の罪に対しては、私が大勢の前で語り、同じ立場の人たちの話を聴いていくことで、“加害者である私”は、償っていこうと思う。

そうなんだ。

あの頃、強くなりたいと願っていた「正しい大人」「嘘をつかない大人」「清い人間」は、実社会に生きていると、有り得ない。不可能なんだ。

対価を求めない行いなんて、有り得ない。

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