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近親姦虐待の被害当事者たちがつながり・語り・学び合うためのセルフヘルプ・グループです。

ヒラケトビラコラム

学問のおすすめVol.4

このシリーズは、2011年夏頃から10回に渡って、あるNPO法人の会報に寄稿した体験談を、再編して掲載しています。

***

昨年の暮れ、母が店に来た。
そして食事をし、「腰が痛くなるから」と、さっさと帰っていった。
ホッとしたが、寂しくもあった。
母が着たら新しい家を見せるつもりだったし、時間があれば近くの美術館にでも行こうと思っていた。
そして今度こそ・・・。

だのに母はさっさと帰っていった。

数年前、私は度々、両親に過去のことを責める電話をしていた。
その度に母が私に「けいこのことを一番に考えていたの。家族や親族の為に我慢してきたの。」と泣きながら言い、その度に私は激怒した。
「また芝居がかったことを言う!嘘くさいんだよ!本当のことを言ってよ!!」何度も怒鳴った。

中3の時、父からの性虐待が母に知れた後、私は母に「家を一緒に出て二人で暮らそう」とお願いした。
母は、「せめて高校を出ないと、これからの時代苦労するから。」と、高校に合格して通うことを条件に、その願いを聞き入れてくれた。
私は即戦力になる商業科を受験することにした。
が、中学入学当時はトップ10に入っていた学力も、その頃には最下位チームに入っていたので、かなり厳しかった。
でも、あの家から離れられるならと猛勉強をし、そしてぎりぎりセーフで合格。
『ざまぁみろ!私を誰だと思っているんだ!!』と、発表の結果を待つ母に、そう威張りながら車に乗り込んだのを覚えている。

私は帰りの車内で
「入学前までにアパートを探して引越しをしよう」と母に言った。
「もう少し我慢して」と応えが返ってきた。

私はその後、何度もお願いした。
その度にそう逃げられ、最後には
「けいこの為にはここで暮らした方がいいと思うの。どう考えても私一人の稼ぎでは生活していけないと思うし、それにおばあちゃん達に何ていっていいか…。商売のこともあるし、お姉ちゃんの仕事のこともあるし…。あんな人でも父親はいたほうがいいのよ。私は父親がいないことでどんなに苦労したか。」などと言いだした。
『また裏切られた…』私は母に絶望した。

高校入学後、母は私に色々なことをしてくれた。
毎週のように買い物に連れ出したり、従姉のカナダ旅行に同行させてくれるよう頼み込んだり、毎日のように遅刻しそうな私を車で通学させたり。
思いつくことを次々にしてくれていたと思う。
けれど、私に言わせれば、それらは『当然の報い』なのだ。
やって当たり前で、うれしくもなければ、たまに『ウザイ』とも思っていた。

そんな母親面した裏切り者が、「けいこのためだったの」と電話口で泣く。
私の怒りの限界は超えていた。
「ふざけんな!絶対に違う!あんたは真実を言っていない!!」と何度怒鳴っただろう。

私には、どうしても言わせたいことがあった。

「私が築いてきたものを失いたくなかったのよ。だからあの家から出て行きたくなかった。」

ある日の電話で、とうとうその言葉を母が言った。
『とうとう言わせた!それがお前の本心なんだよ!!』 その時の私は、達成感を味わった。

そんな母への怒りを、ミーティングで吐き出し続けた。
そして、たくさんの仲間の話も真剣に聞いた。
だんだんと、仲間の語りの中に、何人もの『母』を見つけた。子供達の怒りに戸惑う母達。
そんな『母達』の語りを聞きながら、思った。

私は母の何を知っていたのだろう。
母はどんなに苦しんだのだろう。
父親を亡くしたとき。
奉公先でさげすまれた時。
夫の浮気を知ったとき。
自分の夫が二人の娘に手を出したと知ったとき。
息子が妹に手を出していたと知ったとき。
『娘に手を出すよりは、プロ相手の方がまし。』と、夫の奔放を見逃した時。

どんなに悔しかっただろう…

築き上げたつもりの理想の家族が崩壊した時。
自分の無力さを知り、娘からの信頼も失い、謝っても受け入れてもらえないと知ったとき。

そして、自分が愚かな一人の人間だと知ったとき。

「辛かったと思うよ。あなたのお母さんは必死だったよね。ちょっとズレているんだけれどね。」
S 先生が、母との面会のあとに言ってくれた言葉。
他のミーティングの時、シェアをしていたお母さんに対して「一生懸命生きてきた人を責められないよ。」とも呟いていた。

先日、私の目の前にいた母は70歳を過ぎた小さなおばあちゃんになっていた。
もう、そんな母と何を話していいのか、私にはわからなくなってしまっていた。
でも、それが当たり前なのだ。
ずいぶん離れて暮らしているし、ほとんど連絡も取っていなかったし、普通の親子の関係でもなくなっている。

普通の親子はどんな話しをしていたのだろう?と、お客さんを観察してみた。
世間話やドラマの話しをしていた。
なぁ~んだ。今度母に会ったら、連続テレビ小説の話しでもしてみよう。
きっと見ているはずだから。
だから、今度こそきっと・・・。

さぁ、2012年が始まった。今年はどうなるやら。

実は、昨年の暮れから、性虐待からの回復についての取材を受けていた。
前回のときもそうだったが、インタビューを受けると、性虐待の記憶を掘り返すことになるので、かなり応える。
今回も、胃潰瘍と、逆流性食道炎、おまけに虫垂炎も発症してしまった。
クリスマスメニューや年末特別メニューの豪勢な料理を運ぶたびに、激痛が走った。
これが後遺症なんだなぁ~としみじみ思った。

最初に胃潰瘍になったのは、19歳の夏だった。
忘れもしない、新宿伊勢丹のサマーセールの日。

その年、私は専門学校に通い始め、やっと実家から脱出、寮生活を送っていた。
学費は母親が出すことになっていたので、寮費諸々を自分のアルバイトの給料だけでやっていくつもりでいた。
でも、いざ家を出てみると、稼ぐことの厳しさを思い知った。
そして、親のありがたみを思い知った。

前々日から、実家に帰っていた私は、もうすぐ20歳だし、親の恩に報い、今までのことを水に流して、以前のような家族を復活させようと必死だった。
声も掛けなかった父にも、少しづつ話し掛けるように努力した。
そんな私の前で、母と姉が楽しそうに会話していた。
気付くと、私の腹の中は煮えくり返っていた。

心と身体はひとつじゃないのね…♪

翌日の朝、バーゲンに一緒に行く約束をしていた彼(夫)との待ち合わせに向かう電車の中で、体に異変が現れた。
胃の辺りが焼けただれるような感じがし、強烈な吐き気も、熱もでてきた。

彼に「一緒に病院に行って」と言ったら、「俺はバーゲンに行くって決めたんだからお前一人で行け!」と冷たく突き放された。(今でもこのことは根に持っています。)
私は泣きながら、実家に戻り、母に連れられて病院に。即、2週間入院となった。

そして、何も持たずに入院した私に、満面の笑顔を浮かべながら母が  “リボンがあしらわれフリフリのネグリジェ” を持ってやってきて「一度こんなのを着せたかったのぉ~♪」と私にそれを差し出した。

『この女 一度殴りたい』と思った。

「ちょっとズレてるんだけれどねぇ~。」
 S 先生が見ていたら、きっとそう言っただろう。

結局、ちょこちょこと過去を思い出しては怒りが込み上げてきたり、そして、一通り腹を立てたあと『ふっ…本当にバカだよねぇ~』と呆れかえって笑ってみたり、今年もそんな一年になるのだろう。

さて、今、テレビのニュース番組の20年前の成人式のニュース映像を見ながらこの原稿を仕上げている。20年前、私は人生の大転機を迎えていた。

修行の為にフランスに行った夫を追って、2ヶ月後に私も日本を脱出した。
不安はあった。
けれど、あの家族から、あの過去から、あの全てから、逃げ出せるという気持ちのほうが強かった。
何かが変わりそうな大きな期待を持って。

何かって何だ??と悩みながら。
そして 確かに大きく変わっていく「何か」は掴んだと思う。

それは次回からのお話し。

2012.01頃(K)

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